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お知らせ

この度、社会福祉法人則信会の法人情報及び経営状況を「独立行政法人 福祉医療機構」のホームページに掲載致しました。下記URLよりご覧ください。

法人詳細情報 (wam.go.jp)

上記URLで閲覧出来ない場合は大変お手数ですが、下記URLより則信会を検索して下さい。

社会福祉法人の現況報告書等情報検索 (wam.go.jp)

 

 

 

ういすたりあで働く海外からの職員さんの紹介

 技能実習生として日本に来ました。私は介護の仕事が好きです。現在はデイサービスで働いています。日本に来る前に1年間、ほぼ日本語の勉強をしていました。その時、「日本語は上手になりさえすれば仕事がうまくなれる」と思っていました。
 しかし来日したら、それは「間違っていた」と判りました。日本の文化や習慣も分からず、「話したい」と思っていても話せませんでした。最初はすごく大変でした。でも、「いい先輩」「いい同僚」に恵まれました。介護の知識だけではなく、日本の文化や習慣も教えていただきました。特に礼儀については改めて教えてもらいました。
 お年寄りのお世話をすることには大変意味がありましたが、「心」入れて、「思いやり」を持っていれば、介護の仕事だけでなく、「自分の将来の生活に役に立つ」だろうと思いました。
 ベトナムでは経験できないことをいっぱい経験し、楽しいことも辛いことも含めて日本独自の文化に直接触れることができました。
 毎日、高齢者と歌を歌ったり、踊りを踊ったりしています。私は歌を歌うことが苦手だったのに、高齢者の喜んだ笑顔を見ると、疲れがなくなります。私にとっては、毎日が楽しいです。私は、日本での介護の仕事をまだまだ続けたいと思います。
                                               ユオン・タオ・ニー

ニー

ういすたりあで働く海外からの職員さんの紹介

 私は技能実習生として、県内の介護施設で介護と日本語の勉強をしながら働いています。ベトナムで看護の勉強をしていましたが、大学を卒業しても仕事が見つかりませんでした。前から好きだった日本で働こうと進路を変えて、日本の介護施設に選ばれました。日本に来たばかりの時は、日本語がうまく話せず、聞きたいことや私の気持ちが伝わらないこともあり、また、日本の生活様式も全然わかりませんでした。
 施設の職員さんや利用者さんと関わり、仕事や生活の事を新設に教えてもらいました。私は、日本のことがもっと好きになりました。介護の仕事はコミュニケーションが大切ですので、日本語をもっともっと勉強し、上手になりたいと思います。
 仕事はまだ辛いことがありますが、諦めようと思ったことは一度もありません。持続を意識し、高い忍耐力を学ぶのに役に立ちます。日本で働くすべての皆が、常に安全で成功することを心掛け、これからも励みたいと思います。
                                             グェン・ティ・トゥオン

トゥオン

後期高齢者の厄年

コロナ禍が続く令和3年の正月、初詣は東京都府中市にある大國魂神社に行った。大國魂神社は、大国魂大神(おおくにたまのおおみかみ)を武蔵国の守り神としてお祀りした神社である。この大神は、出雲の大国主神御同神で、福神又は縁結び、厄除け・厄払いの神として著名な神様とされている。hatsumoude_couple

私はコロナ対策として、密閉、密集、密接の三密を避ける意味からこの神社を選んだのであるが、もう一つの理由もあった。それは昨年末にベトナムから技能実習生として来日し、2週間の隔離期間を終えたばかりの4名のお嬢さん方に日本の正月の一部でも味わってもらおうとの考えもあっての初詣であった。

例年に比べると、比較的すいていた神社でお参りを済ませ、彼女たちと昼食を食べているときのことである。なぜか私の右下腹部にシクシク痛む感覚を覚えた。寒さ対策は十二分にしてきたつもりであるので、60年前に手術した虫垂炎の古傷が癒着でもしたのかな?くらいに思っていた。でも何かすっきりしない予感が脳裏をよぎっていた。

ベトナムからの技能実習生を宿舎に送り届け、我が家に帰ってゆっくり湯船に浸かりながら右下鼠径部に手を当てると、そこには大きな膨隆ができていた。しかし、その膨隆部を優しく押すと、その膨らみは消失するのである。とっさに私は直感した。出たな!まさかこの年になって、思いもよらなかった鼠径ヘルニアが出るなんて・・・。

鼠径ヘルニアは、自然治癒はなく、手術によって筋膜を補強するメッシュを入れ、鼠径管に腸が入り込まないようにしなければならない。インターネットを駆使して、早速医療機関探しに取り掛かったが、コロナに関する緊急事態宣言は発令されているし、混み合っている電車やバスは乗りたくないし・・・。しかし長く放置をしすぎて腸が周囲の筋肉で締め付けられて押しても戻らない「嵌頓状態」になってしまい、緊急手術になるのも怖いし・・・。

いろいろ迷っているうちに、今度は帯状疱疹を発病してしまった。時期は4月上旬のことである。発症部位はほとんど右腕に限局されていたが、痛みと赤い斑点、そして水膨れには閉口した。特に疼痛にはひどく悩まされた。飲み薬を塗り薬を皮膚科の先生に処方してもらい約2週間で峠は越えたが、帯状疱疹特有の症状がダラダラと続き、寛解するまでは難儀をさせられた。

帯状疱疹は、加齢などによる免疫力の低下が発症の原因であり、80歳までに約3人に1人が発症すると言われている。疲労やストレスなども発症のきっかけになると言われているので、職場では「疲労が原因で帯状疱疹に罹った」「ストレスが多くてヘルペスが発症した」等々、声を大にして吹聴したが、同調し、労い、憐れんでくれる職員はいなかった。寂しい限りである。老兵は消え去るのみなのであろうか・・・。

話を本題に戻そう。新型コロナウイルスにおける「緊急事態宣言」が発令されている中、意を決して「鼠径ヘルニア手術」を敢行した。敢行と言っても手術を行うのは医師であり、私はただひたすら寝ていればいいのである。あえて言えば「俎上の鯉」である。

術式は全身麻酔下における「腹腔鏡手術」。5月17日の朝、8時30分前にクリニックに着いてしまった私は、建物の周囲を探索していると、出勤してきた病院スタッフに出くわした。私が何か迷って、探し物をしているかのように見えたのであろうか、病院スタッフは、

「どうされましたか?」と声をかけてきてくれた。

「今日はOpe.なんです。ちょっと早く着きすぎてしまったので・・・」

「そうですか、では一緒に行きましょう。手術の時間はそれほどかかりませんし、ちょっと休んで、午後にはお帰りになることができますからネ。心配はいりませんヨ!」と手術室のある階まで私を案内してくれた。iryou_doctor_nurse

3階に上がり、受付をすますと麻酔医の先生が挨拶に見えた。

「本日、担当をさせていただきます麻酔医の〇〇です」と、椅子に座っていた私に目線を合わせるように、片膝をついて挨拶をされた。

「今日はお世話になります。よろしくお願いします」と、挨拶を交わしたのち、更衣室に案内された。ここで手術衣に着替えて手術前の処置室に通された。ベッドに横たわり、右指にパルスオキシメーターを付けられ、左腕の静脈に小さな注射針を挿入されたところまでは覚えているのではあるが、私の記憶はここで途絶えてしまった。時間的には9時頃であったと思われる。

どれくらい時間が経過したのであろうか?私の腹時計からすると正午ごろだったと思われる。覚醒すると同時に私の思考回路は手術前と全く同じように駆動していた。それから1時間?くらいは唯々仰臥しているだけのリカバリータイムであった。私にとってこの時間は、ただひたすらに考えることに没頭できる貴重な時間であった。bed_boy_sleep家庭のこと、仕事のこと、執刀してくださった先生の人柄の良さ、朝挨拶に来てくれた麻酔担当の先生の礼儀正しさ、朝声をかけてくれて私の不安を和らげてくれた病院スタッフの女性のこと、お世話になっているクリニックのスタッフの皆さんの親切で優しい人柄、さらには38歳で手術中に逝ってしまった私の弟のこと等々。

やがて看護師さんから声がかかり、覚醒の状態を確認された後、私は私服に着替えて担当医の術後診察を受けて帰宅の途に就いた。時刻は午後の1時半頃と記憶している。

主治医の先生からは、「様態は如何ですか?」と尋ねられたが、術後の痛みはほとんど感じられず、ただ「目の中にゴミが入っているように痛いです」と訴えて、術後の服薬剤に加えて、目薬も処方してもらった。目の痛みは麻酔の影響で交感神経が働き、アドレナリン分泌が促され、一時的に涙腺の涙を作る運動が鈍くなったために起こった現象ではないかと思っている。

一人で電車、バスを乗り継いで帰宅した後も術後の痛みは感じられず、家に帰りまたひと眠りしたことによって、目の渇きによる痛みも消失していた。

まだ、自転車に乗ったり、重い荷物を持ったりすることは禁止されているが、これも術後1カ月の検診で解除されることであろう。

しかし、今まで健康には自信があった私が半年間に二つも疾病を抱え難儀するとは思ってもみなかった。これが加齢のなせる因果なのであろうか?この二つの闘病が私の災難仕舞いになるのか、「二度あることは三度ある」に繋がるのか・・・。いづれにしても私は「ピンピンころり」で人生を全うしたいと考えている。

伊藤 克之

 

初鰹とホトトギス

5日のこどもの日が最後の休日となったゴールデンウイークが終了した。コロナ禍の影響で、今年は消化不良を抱えたようなGWであった。読者の皆さんもきっと同様のストレスを感じて過ごされたのではないだろうかと推察している。

我が国において、外国人を含む14歳以下の子どもの数は、前年より19万人少ない1493万人で、40年連続で減少している。新型コロナウイルス禍の2020年の出生数は過去最少であった。徳川幕府の第11代将軍・家斉の子どもの数は50人を優に超えたが、成人できたのは約半数だったと言われている。

当時に比べれば医療、経済水準、衛生、福祉がダントツに向上し、世界でトップレベルの乳児死亡率(年間の1000出生数あたりの生後1年未満の死亡数)を誇っている日本であっても、子供人口の減少には歯止めがかからないのが現状である。(参考資料2021.5.5.編集手帖)要するに、これは出生率の低下が大きなネックとなっている。

また、桜の盛りが終わりさわやかな若葉・青葉の5月になると、4b2422b1e310a68339072e29ee6c8492_t_jpegいつも脳裏をよぎるのが「目には青葉 山ほととぎす 初鰹」の、江戸中期の俳人・山口素堂の句である。初夏の季節感を視覚、聴覚、味覚でとらえ、季語を3つも入れたこの句は、春から初夏への季節の変化を最も象徴的に表すものの典型とされている。

桜は咲いてもすぐに散る。ホトトギスは山からやってきても「あっ」という間に帰っていく。ホトトギスには時鳥、不如帰、杜鵑、蜀魂、子規、郭公、冥途鳥、無常島、魂迎鳥、夕影鳥、恋し鳥、沓手鳥、霍公鳥、杜宇、等々の字が使われている。「キョッキョ キョカキョ」と鳴く、ホトトギスは全長28cm程度のカッコウ科の鳥である。口の中が真っ赤であることなどが「血」や「死」をイメージさせるためか、正岡子規はカリエスを患ってよく吐血したので「子規」と名付けたという。徳富蘆花の小説にも、ヒロイン・浪子の病患を扱った小説「不如帰」がある。

このようにすぐに所在が分からなくなることから、「声も 丸てはきかぬほととぎす 半分ゆめのあかつきのころ」(頭光)、「ほととぎす 自由自在にきく里は 酒屋へ三里 豆腐屋へ二里」(桑楊庵光)の句でも詠われている。

一方、「初鰹銭と辛子で二度涙」と川柳で読まれたほど、江戸時代は鰹の初物は人気があったという。江戸時代、「初物は寿命が延びる縁起物」ということから、相模湾で釣れた初ガツオは買い手が殺到し、1本3両、今の値段なら10万円以上になったと言われている。(編集手帖2021.4.30.より)

そんなわけで、当時は「まな板に 小判一枚 初鰹」(宝井其角)と謳われもしたが、「初鰹は女房子供を質に置いてでも食え」と言われるほど人気があったという。

私は、魚は好んで食べる方ではないが、「鰹のたたき」大好きである。別名「土佐造り」と言うらしいが、かつて息子が「ふるさと納税」を使って取り寄せてくれた「土佐造り」はとても美味しかった。江戸時代からも捕れたという相模湾の「かつお」よりずっとずっと美味しかった。土佐づくりは新鮮なかつおを皮付きのままおろした節を、表面だけ火が通るように炙り、冷水でしめる。そして藁を使って炙ると香りがよくなる。21119269水気を切って1cmほどの厚さに切り、少々塩をふって、又は包丁の背などを使ってたたく。大皿に盛って、上から薬味とタレをたっぷりかけて食べる。薬味としては生姜、ニンニク、大根おろし、ネギ、アサツキがよく合う。タレにはレモンやスダチなどの柑橘系の酸味を利かせたポン酢や醤油ダレがよく合う。(食の歳時記・旬の味より)

伊藤 克之

 

明るく陽気に生きましょう!

新型コロナウイルス感染防止に関しての「非常事態宣言」が終息したと思ったら、新型コロナウイルスの変異種出現、まん延防止の警戒警報が発令され、相変わらず私たちのストレスは解消されることはない。今回は気分一新の意味で、コロナから離れた話題で行きましょう。

清少納言は、枕草子でこう述べている。

『ありがたきもの。舅(しゅうと)にほめらるる婿。また、姑(しゅうとめ)に思はるる嫁の君。毛のよく抜くる銀の毛抜。主そしらぬ従者。つゆのくせなき。かたち心ありさますぐれ、世にふる程、いささかの疵(きず)なき。〔一部省略〕男女をば言はじ、女どちも、契り深くて語らふ人の、末までなかよき人、難し』uta_yomu_woman-1[1]

『めったにないもの。舅に褒められる婿。また、姑に思われるお嫁さん。毛がよく抜ける銀の毛抜き。主人のことを悪く言わない従者。少しも癖のない(人)。容姿や気立て、態度が秀でており、世の中を過ごす間に、少しも欠点のない人。男女(の仲)については言うまでもないが、女同士でも、約束を固くして親しく付き合っている人で、最後まで仲の良い人というのは、めったにない』

この「従者」の例は、昨今であれば会社の上司と部下の関係が当てはまるのではないだろうか。その上司の悪口を言わない部下などいない。上司の悪口ほど面白いことはないから、酒の席などでは格好の肴になる。それを肴にしない部下などいないのではなかろうか。

過去、と言ってもそう遠くない昔である。女子アナの座談会で、あるテレビ局の女性アナウンサーが上司からいじめられた腹いせに、上司の机の引き出しに「ウンチ」を入れたということを聞いた記憶がある。今日的に表現すれば、日頃からよほどの「パワハラ」があったのであろう。しかし、女性の恨みというものは恐ろしいものである。

私にはこの逆バージョン?の経験があった。かつて私にはSという部下がいた。Sは衆人が認める変わり者であった。まず、Sの家庭の出来事から話そう。

ある日、姉さん女房のSの奥さんは運転免許証の更新に警察署に行った。そこで視力の検査を行ったが、両眼で視力検査機を覗いても、どうしても0.7迄の記号を判別することができなかった。当然不合格である。そこでSの奥さんは、「眼鏡を変えてまた来ます」と言って、警察署を飛び出し急いで眼鏡屋に飛び込んだ。chikoku_business_womanしかし、眼鏡店の方でも突然来店され「すぐ眼鏡を作ってくれ」と言われても、おいそれと作れるわけがない。「まずは視力検査から」と検眼を行い、いくつかのレンズを合わせ矯正視力を上げて行った。ある程度視力が回復したところで、そのレンズを入れた鉄製の黒いフレームのまま警察署に再び訪れ、再度警察署で免許更新のための視力検査を行ったのである。Sは、その仮の眼鏡で免許更新の手続きがうまく行ったかどうかは教えてくれなかった。

S夫婦には幼稚園の先生をしている一人娘がいた。その一粒種のお嬢さんが社会人になってからは、S夫婦はよくドライブに出かけた。昼間であろうが夜であろうが、思いつくとすぐに出発をした。時には夜を徹して広島県まで車を飛ばすことさえあった。理由は、テレビに映っていた広島の「カキ」が食べたいからである。奥さんは運転免許証は持っていたが、車の運転は主にSに委ねられていた。したがって、朝帰りの強行軍のドライブの命令もしばしば下命されていたのであろう。Sはよく職場で欠伸をしたり、居眠りをしていた。また、二人は車内でよく喧嘩もした。あるとき、その喧嘩がエスカレートした。するとSは、「次の料金所を過ぎたら車を止める!俺はそこで車を降りて一人で帰るから、あとはお前が一人で運転して帰れ!」 奥さんは「じゃあ勝手にしなさい。私は自分で運転して帰る!」と高速道路の料金所の路肩でSを降ろし、自分で車を運転して帰ってしまった。どこの料金所の近くで車から降ろされたかは知らないが、Sの家からは相当遠い場所であったことは事実である。Sは「しまった。ここからでは家まで相当長い距離がある」と気づいたが、それは後の祭りであった。Sは歩き、バスを乗り継ぎ、電車に乗り、相当の時間とお金を使って帰宅したいという。

これからのことは、笑いで済まされない、パワハラの範疇に入ると思われるので、時効を理由に読者の皆さんは不問に付していただきたい。

東京・銀座8丁目に博品館というお店がある。あるとき我々はここで黄色いウンチがトグロを巻いているおもちゃを購入した。unchi_character早速事務所に持って帰り、私はSが帰宅したのを見定めたのち、Sの椅子の座布団の上にさりげなくおもちゃのウンコを置いて、明日の朝Sが出勤したときに、「Sさん、いくら朝時間がないからと言って、こんなところでウンコをしたら駄目じゃないか」というつもりであった。ところが、そのあとに施設長が手を加えて、このウンコを机の右下に移し、その下にティッシュペーパーを敷き、ご丁寧にそのティッシュペーパーの中心部にコーヒーを染み込ませ、知らんふりをして帰宅してしまった。

ところがである。このおもちゃのウンコをSが気づく前に、夜勤担当の職員が発見してしまい、施設は早朝から大騒ぎになってしまった。「昨夜は大変なことがあったんですヨ!!」

始業時間ギリギリに出勤するSは、「何かあったんですか?」で終わってしまった。我々はこのようなSのことを酒の肴にして酒を飲むと、いつも2~3時間は持つ。このことをSに言うと、Sは「では僕に酒の肴代を下さい!」と宣った。

コロナ禍が落ち着くまでは、ストレスもたまるでしょうが、焦っても仕様がありません。”気楽に陽気に生きましょう!!!”

伊藤克之

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プレゼントされた書籍から

一昨年の2月のことである。私は60年振りに高校時代の2年先輩・野澤宏氏にお会いすることができた。私は高校に入ってすぐにブラスバンド部に入部した。そこで右も左もわからない私にトロンボーンを教えてくださったのが、野澤宏先輩であった。suisougaku現富士ソフト株式会社取締役会長執行役員の野澤先輩は、過日の出会いを期に当時のブラスバンド仲間に対しても、会長の半生を綴った雑誌「財界」を送り続けてくださっている。今回の4月7日号で、すでに22回の連載であるが、この連載は依然として続いている。私はこのプレゼントに喜び、感謝するとともに、この連載がまだまだ続くことを期待している。何故ならば、この連載を読むことによって、野澤会長をもっともっと知ることができ、また会長の考え、経営手腕をさらに勉強することができるからである。

この雑誌「財界」に最近、ミキハウスグループ代表・木村晧一氏に関する連載「ミキハウス物語」が始まった。ミキハウスと言えば赤色と紺色を基調とした高級子供服メーカーの会社であり、柔道を始めとする諸々のスポーツ界のスポンサーぐらいにしか知識がなく、ミキハウスグループ代表の木村晧一さんの名前も存じ上げなかった私であるが、最近は孫が生まれたせいで子供服というか子供用品に興味を持つようになり、「ミキハウス」は非常に身近な存在になっている。このようなバックグランドがあることころでの連載開始であった。

私は、このミキグループ代表の木村氏の生い立ちに深く感銘を受けたので、この欄で取り上げさせていただき、皆さんにも知っていただきたく、ペンを執ることにした。

木村代表は1945年滋賀県の生まれである。私とは誕生日も近く、年齢も一緒であった。この点も興味をそそられた一つである。木村代表は3歳の頃、小児麻痺に罹り、右足が麻痺してしまったそうである。小学校4年生までは歩行困難で、車いす生活が続いたそうである。この窮地から脱出すべく、「自分の足にどうしたら筋肉が付くか、筋肉をつけるには何をするべきか」を熟考し、自分の病気の寛解・完治・自立への糸口を模索したという。「自分の足は自分の力で治す」10歳、小学校4年生の木村少年は決意したのである。そして彼が導き出した結論は、「自分で足を動かして、自ら足に筋肉をつけていくほか、自分の病気は治す方法はない!」という結論であった。

そして木村少年は小学校高学年になると歩行訓練に入るのである。転んでも耐え、捻挫をしても耐え、激しい痛みにも耐えて・・・

やがて木村少年は、中学入学を期に歩く訓練を兼ねて新聞配達のアルバイトを始めるのである。朝3時には起き、雨の日も風の日も新聞配達は続けられた。悪い右足を庇ってケンケンしながらの新聞配達である。そして新聞配達が終わると家に帰って、制服に着替えて学校に向かうのである。中学に入ってからは車いすを使わず、生活のすべてを自分の足で歩いて頑張ったという。家から学校までの約1kmを1時間かけて・・・。中学校はいつも遅刻の連続であったという。

ハンデキャップのある木村少年の介助をしてくれた小学校時代の友達の行為は、友情ではなく同情だと気づいた木村少年の見識、筋肉増強のために行った新聞配達時代に会得したマーケティングの発想、リハビリに打ち込んだ高校時代、大学時代に心を惹かれた心理学の礎があって木村青年は昭和46年、26歳で三起商行の前身三起産業を創業したのである。EchzlzCU4AEI3AOそして1989年からオリンピックを目指す選手たちを本格的に支援している。その根底には「オリンピックへの出場を果たし、世界のトップを目指す選手は日々、激しい努力を積み重ねている。一生懸命やっている姿に感動するんですよ」という木村会長の「心」があるからだと思っている。

私も「一生懸命」「一所懸命」という言葉が大好きである。一生懸命努力している人、見えないところで頑張っている人、耐えている人達を見ると涙嚢から涙があふれ出てしまう性質なので、木村会長とは相通ずるところがあると感じている。

しかし、木村会長や野澤会長に比べて浅学菲才の私は、「財界」を読んで、先輩の野澤富士ソフト会長、木村ミキハウスグループ代表のご努力、見識、実行力に感銘し、尊敬ばかりである。しかし、自分一人で感激しているばかりでは申し訳ないので、これらのことを我々の法人職員にPRしたいと思い、活字にすることにした。「ういすたりあ」の職員も、この拙い文章、さらには「財界」の雑誌を読むことで何かを会得し、もっとお二人の会長に近づけるよう発奮してもらえれば幸いである。(参考文献「財界」・株式会社財界研究刊)

伊藤 克之

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