お休み処「わびすけ」

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プレゼントされた書籍から

一昨年の2月のことである。私は60年振りに高校時代の2年先輩・野澤宏氏にお会いすることができた。私は高校に入ってすぐにブラスバンド部に入部した。そこで右も左もわからない私にトロンボーンを教えてくださったのが、野澤宏先輩であった。suisougaku現富士ソフト株式会社取締役会長執行役員の野澤先輩は、過日の出会いを期に当時のブラスバンド仲間に対しても、会長の半生を綴った雑誌「財界」を送り続けてくださっている。今回の4月7日号で、すでに22回の連載であるが、この連載は依然として続いている。私はこのプレゼントに喜び、感謝するとともに、この連載がまだまだ続くことを期待している。何故ならば、この連載を読むことによって、野澤会長をもっともっと知ることができ、また会長の考え、経営手腕をさらに勉強することができるからである。

この雑誌「財界」に最近、ミキハウスグループ代表・木村晧一氏に関する連載「ミキハウス物語」が始まった。ミキハウスと言えば赤色と紺色を基調とした高級子供服メーカーの会社であり、柔道を始めとする諸々のスポーツ界のスポンサーぐらいにしか知識がなく、ミキハウスグループ代表の木村晧一さんの名前も存じ上げなかった私であるが、最近は孫が生まれたせいで子供服というか子供用品に興味を持つようになり、「ミキハウス」は非常に身近な存在になっている。このようなバックグランドがあることころでの連載開始であった。

私は、このミキグループ代表の木村氏の生い立ちに深く感銘を受けたので、この欄で取り上げさせていただき、皆さんにも知っていただきたく、ペンを執ることにした。

木村代表は1945年滋賀県の生まれである。私とは誕生日も近く、年齢も一緒であった。この点も興味をそそられた一つである。木村代表は3歳の頃、小児麻痺に罹り、右足が麻痺してしまったそうである。小学校4年生までは歩行困難で、車いす生活が続いたそうである。この窮地から脱出すべく、「自分の足にどうしたら筋肉が付くか、筋肉をつけるには何をするべきか」を熟考し、自分の病気の寛解・完治・自立への糸口を模索したという。「自分の足は自分の力で治す」10歳、小学校4年生の木村少年は決意したのである。そして彼が導き出した結論は、「自分で足を動かして、自ら足に筋肉をつけていくほか、自分の病気は治す方法はない!」という結論であった。

そして木村少年は小学校高学年になると歩行訓練に入るのである。転んでも耐え、捻挫をしても耐え、激しい痛みにも耐えて・・・

やがて木村少年は、中学入学を期に歩く訓練を兼ねて新聞配達のアルバイトを始めるのである。朝3時には起き、雨の日も風の日も新聞配達は続けられた。悪い右足を庇ってケンケンしながらの新聞配達である。そして新聞配達が終わると家に帰って、制服に着替えて学校に向かうのである。中学に入ってからは車いすを使わず、生活のすべてを自分の足で歩いて頑張ったという。家から学校までの約1kmを1時間かけて・・・。中学校はいつも遅刻の連続であったという。

ハンデキャップのある木村少年の介助をしてくれた小学校時代の友達の行為は、友情ではなく同情だと気づいた木村少年の見識、筋肉増強のために行った新聞配達時代に会得したマーケティングの発想、リハビリに打ち込んだ高校時代、大学時代に心を惹かれた心理学の礎があって木村青年は昭和46年、26歳で三起商行の前身三起産業を創業したのである。EchzlzCU4AEI3AOそして1989年からオリンピックを目指す選手たちを本格的に支援している。その根底には「オリンピックへの出場を果たし、世界のトップを目指す選手は日々、激しい努力を積み重ねている。一生懸命やっている姿に感動するんですよ」という木村会長の「心」があるからだと思っている。

私も「一生懸命」「一所懸命」という言葉が大好きである。一生懸命努力している人、見えないところで頑張っている人、耐えている人達を見ると涙嚢から涙があふれ出てしまう性質なので、木村会長とは相通ずるところがあると感じている。

しかし、木村会長や野澤会長に比べて浅学菲才の私は、「財界」を読んで、先輩の野澤富士ソフト会長、木村ミキハウスグループ代表のご努力、見識、実行力に感銘し、尊敬ばかりである。しかし、自分一人で感激しているばかりでは申し訳ないので、これらのことを我々の法人職員にPRしたいと思い、活字にすることにした。「ういすたりあ」の職員も、この拙い文章、さらには「財界」の雑誌を読むことで何かを会得し、もっとお二人の会長に近づけるよう発奮してもらえれば幸いである。(参考文献「財界」・株式会社財界研究刊)

伊藤 克之

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