お休み処「わびすけ」

ブログアーカイブへ≫

介護分野におけるバウチャー制度

アベノミクスの影響で円安が進み株価が上昇したことによって、製造業を中心をする大企業は大きく業績を伸ばしている。一方、実質賃金指数は、昨年より16ヶ月連続で前年同月比がマイナスである。私の周りには株価の上昇で喜ぶ人よりも消費税3%増や円安による物価の上昇で苦しんでいる人の方が多く見受けられる。

わが国のこのような経済状況の中、親の介護と仕事を両立させるため正社員から転職した人は年収の落差を強いられ、生活苦を余儀なくされている。real_illust_bad40歳以上の男女のうち介護転職をした人の割合は25%、転職先でも正社員として働いている人は男性では3人に一人、女性にあっては5人に一人であった。そしてその収入を見ると、男性は61%、女性は50%へと減少し、四分の三以上の人たちがこの転職を後悔している。(明治安田生活福祉研究所)

そもそも我が国の介護保険制度は、高齢化の進展に伴い要介護高齢者の増加、介護期間の長期化など、介護ニーズが増大する一方で、核家族化の進行、介護する家族の高齢化など、要介護高齢者を支えてきた家族をめぐる状況も変化してきたため、高齢者の介護を社会全体で支えあう仕組み(介護保険)として2000年に創設されたものである。ところが現在の高齢者の介護は、多くが家族での負担となってきている。いわゆる在宅介護である。

原因は、経済的な問題、在宅介護と両輪になる高齢者介護施設が少ないこと、介護労働人口がきわめて少ないこと等々が挙げられる。さらに後者を掘り下げると介護職員の処遇が他の職種に比べて良くないこと、大きくは医療・介護・保育の世界に夢を抱かせない、子育て時における教育の貧困さまでもが考えられる。

そこで私は提案したい。安部首相は教育改革の検討会議の中で「教育バウチャー制度」の検討を揚げているようであるが、介護現場にもこの「バウチャー制度」導入を検討したい。box01_illust1そもそも「バウチャー」とは、引換券・割引券の意味であるが、国や自治体が目的を限定して個人を対象に補助金を支給する制度である。所定の手続きにより引換券として支給する方式が多く、教育・保育・福祉などの公共サービスが対象で、利用者はその中から必要なものを選択して、引換券を提出してサービスを受ける、というものである。

この制度を現在の福祉の現場で利用すれば、在宅介護の高齢者が特別養護老人ホームや短期入所施設等の方が入院中などで空いたベッドを利用券一枚で超短期的に利用できるし、施設側も空きベッドの解消につながる。この受け入れ可能状況については常時インターネットを通じて配信することによって、在宅介護者は短い期間ではあるが、家族の介護から逃れ、休息(レスパイト)を得ることができ、また自らの仕事にも専念できる。

一方、受け入れる施設側では不特定多数の要介護者とその家族がクライアントとなるために、常に第三者評価を受ける立場となり、職員のスキルアップと施設環境改善の努力を怠ることができない。この結果が、施設評価につながり、さらにはわが国の介護レベルのアップにつながり、医療分野において「看護学」というものがあると同様に福祉分野における「介護学」の確立につながるのではないだろうか。illust3258

介護バウチャー制度に対する課題、問題点は山積していることは十二分に承知はしているが、ゴールは「要介護者誰も」が「利用券一枚」で「いつでも」「どこでも」「介護を受けることができる」「介護システム」の構築とレスパイトケア(介護者の休息)である。師走のうちに初夢を早く見すぎた私でした。

伊藤 克之

平均的な日本人の一生

私は身長170.7cm、体重62.8kg、BMIが23.4と、日本人の平均体格をしている。IQは105である。若い時から32.2%の人が苦しんでいる花粉症に罹っている。でも、同じ割合の人が嗜んでいる煙草は止めることができない。

4.3年お付き合いをした妻とは、30.8歳で結婚した。この間1回の費用が3千円から5千円のデートを重ね、クリスマスプレゼントには1万5千円もの品物を奮発した。婚約時には36万4千円の指輪を贈った。

結婚式の費用は3百30万円を費やし、百人弱の参加者に祝福してもらうことができた。110_F_54566250_lvauPma2m9l8dOPDDELyCGrGlYkBQfl2参加者一人当たりのお祝いは、2.9万円であった。6.9日をかけて新婚旅行に行き、一姫二太郎を設けた。子供の数は日本人の平均より若干上回っていると自負している。息子は9.7歳になるまで一緒にお風呂に入ってくれたが、娘は8.9歳までしか付き合ってくれなかった。ちなみに、入浴時間は10~20分である。

通勤に1時間10分をかけ、1日7時間30分働き、残業は週47時間も頑張った。20_03_01年収は408万円であるが、クレジットカードは3.5枚も持っている。月4万5千円の小遣いを妻から貰って、2~3か月に1回の飲み会、2か月に1回の散髪、月1回の映画を楽しみ、年に1回はカラオケに行く。これは推測だが、妻は417万円ものヘソクリを隠している。

宿泊を伴う国内の旅行は4万8千円で我慢するが、海外旅行には21万6千円と大盤振る舞いをする。

マイホームは3614万円をかけて購入した。我が家では、睡眠時間は7時間42分、1日1回の便通があるが、運動習慣は週に1.39日、歩数は1日7791歩である。食事に関して言えば、1日のカロリーは2089㎉だが外食は月に6.3回、回転寿司では11.1皿の寿司を食べる。しかし悲しいことに、昼食代は518円で我慢している。このため、月に6.5回のカレーライス、2~3回のカップラーメンを貪る。この結果、塩分の1日の摂取量は10gにも上り、WHOの定める指標・5gを大きく上回っている。そのためか、日本人の33.7%が罹患している高血圧症になってしまい、毎日の服薬が欠かせない。

将来は、1941万円の定年退職金を貰い、80~84歳頃には要介護者となり、roujin01やがては、日本人の28.8%の死因を占める癌を患い、79.94歳で亡くなるであろう。その準備のために203万円の葬式費用と168万円のお墓を準備しなければならない。心残りは、65.5%の人が反省している「もっと英語を勉強しておけばよかった!」という思いではないだろうか?

(引用文献・日本人の平均:統計確率研究会)           伊藤 克之

 

 

叶わなかった夢

北の大地・北海道。私はこの地を枚挙にいとまがない程訪れている。かつて北海道の大学で教職の立場であった頃、家族旅行、同窓会の旅行等々である。しかし、何故か「釧路湿原」だけは行ったことがなかった。絵葉書やパンフレットを眺めては、そこに行くことを長年夢に見ていた。そこで、「秋休み」と表現したほうが良い程時期外れの遅い夏季休暇をとって、私は北海道・道東への旅に出ることを思い立った。台風18号の後始末を終え、「骨休めにはちょうどいいかな?」とも思ってまだ見ぬ憧れの地への訪れを心待ちにしていた。ところが湘南地方を直撃した台風18号より勢力の強い台風19号が接近し、不幸なことに台風18号とほとんど同じコースを辿っているではないか。台風19号の被害を心配しつつも、私は滅多にとれない休暇を消化しようと、信頼できる職員に留守を託して、一か八かの旅行を決行した。

10月12日、ANA375便は羽田空港を15分遅れでオホーツク紋別空港に向けて出発した。機長は機内アナウンスで「この遅れはできる限り取り戻す予定」と言っていたが、1本しかない滑走路に着陸した時は25分以上も遅れていた。この辺りからが今回の旅行の不幸の始まりだったような気がするのである。しかし着陸寸前に見えた大雪山連峰はすでに冠雪しており、上から眺める大雪山は素晴らしい景観であった。

紋別空港で出迎えてくれたのは、北紋バスのガイドさんであった。私には「ホクモン・バス」がどうしても「獄門バス」と聞こえてならなかった。なぜならば、ガイドさんは「巨人の星」に出てくる「左門豊作」を女性にして、小さめの制服を無理やり着せたような人だったからである。機長のアナウンスと言い、バスガイドさんの容姿と言い、私は何故かこれからの旅行に一抹の不安と寂しさを感じざるを得なかった。

サロマ湖、能取湖を左に見ながら、DSC_0174 - コピーサンゴ草の群生を見学させられ、着いたところが海産物の土産品店であった。次に向かったのが「博物館・網走監獄」である。50年前にも私は観光で網走刑務所を訪れているが、その時はある検事さんの紹介状を持っていたので、普段観光客が入れない赤いレンガ造りの正門の中まで入れてもらうことができた。今回は当時の刑務所の一部を移設した博物館であったので、獄舎の中まで入り、詳しい説明案内まで受けることができた。私が講義を受け持っていた大学の近くにも「樺戸集冶監」や「月形刑務所」があり、何度か訪れているので、私には刑務所が何故か身近に感じられる。しかし、いくら刑務所に縁があるといっても、ここに入所しようとは思わない。話は逸れるが、私は東京御茶ノ水にある明治大学内の「拷問資料館」もいつか見学したいと思っている。

北国の日没は早く網走監獄博物館を出たころには、あたりはもう薄暗くなっていた。秋の陽はツルベ落とし、第1日の宿泊地・屈斜路湖に向かう道路中ほどにある美幌峠に差し掛かる頃には、あたりは漆黒の闇でどこを走っているのか、どこに連れてこられたのか全く解らなかった。晴れた日の美幌峠は、眼下に屈斜路湖が望め、素晴らしい景色だったことを覚えている。

二日目も曇り。早朝に屈斜路湖を出発し、野上峠を越えて知床に向かった。途中屈斜路湖の白樺が紅葉しており、道路両側の景色は最高であった。斜里、ウトロを抜け、知床五湖の一湖を見物した。どんより曇った知床五湖の駐車場が使用できるのは今年は今日が最後、明日から来年の雪解けまでクローズとのことで滑り込みセーフであった。しかし昼食をとった「さいはて市場」では、しけのためウニが採れないとのことで楽しみにしていた海鮮丼は食べられず、泣く泣くイクラ丼で我慢する。サービスは悪くても、値段は高かった。

再びUターンをして知床峠に向かう。知床峠は風が強く、ひどく寒い。しかし霞んでいる国後島をかすかに望むことができた。DSC_0186 - コピー早々にバスに戻り、野付半島のトドワラに向かう。ここから国後島までの距離は16km、したがってロシア国境までの距離は8kmしかないそうである。漁師さんたちが漁場で苦労されていることが伺い知れた。ちなみにトドワラとはトドのエサではなく、トド松の枯れたものを指すのだそうである。ぼちぼち辺りは暗くなり始めた。雨もポツポツ降り出してきた。摩周湖から10kmも離れているのに「摩周湖・道の駅」と名付けられた道の駅には足湯が設置されていた。「摩周湖・道の駅」には役場の職員が地熱発電を利用してLEDのイルミネーションを点灯させ、周囲の樹木を満艦飾に引き立たせていた。二日目の宿泊地・阿寒湖に向かう阿寒横断道路は、名前は格好いいが、周囲は真っ暗闇で、くねくねと曲がりくねり、ドライバーの腕だけが頼りの怖い道路であった。阿寒湖畔のホテルでは暖房を入れざるを得ないほど寒く、とても露天風呂に入る勇気は湧いてこない。また、湘南地方の台風状況が気になり、テレビを一晩中つけっぱなしにし、問い合わせには携帯電話を多用して、少しでも台風状況を把握するとともに、明日からの自分たちの行程、スケジュールに対する不安を払拭しようと努力することにした。夕飯に毛ガニを注文すると、茹でた毛ガニと鋏だけがドーンと出てきて中の身を食べられるようにするまでには二、三十分の作業が必要であった。我々は黙々とこの作業を続けた。おかげでアイヌ古潭のイヨマンテショーにも行けず、千本松明の行進も見ることができなかった。一晩中テレビに噛り付いていたおかげで睡眠不足の朝を迎えざるを得なかった。マリモを買ってきて、ういすたりあにある金魚の水槽に入れようと思ったが、マリモが金魚の糞で汚れると止められ、諦めることにした。

翌日は遠くに丹頂鶴を眺めながら待望の釧路湿原に向かった。「湘南地方は台風19号の影響はたいしたことはなかった」との報告を受けていたが、今度はこちらが心配である。果たして飛行機は飛ぶのであろうか、風雨はだんだん強くなってきている。気温は10度を下回り、海は大しけ、場所によっては降雪のニュースが流れている。釧路湿原展望台に着くと、風雨はさらに強くなり、湿原がどこにあるのか全く見当がつかなかった。釧路湿原の思い出は、公衆便所で用を足した事のみであった。

最後の見学地、摩周湖第一展望台に着いても冷たい雨は降り続け、DSC_0189 - コピー上から見る摩周湖はただの濁った大きな水たまりに見えた。諦めて根室中標津飛行場に向かった。最後の添乗員の挨拶がこの最悪の旅行の止めを刺した。「最後に告白しますが、実は私、雨女どころか暴風雨女なんです。最近では熊本に添乗した時、台風の接近で1日の延泊を強いられ、知床のウトロ温泉では3日も延泊しました。でも温泉地の延泊は楽しいですよネ」私は「それを旅行前に言え!フザケルナ!」と言いたい衝動に駆られた。果たせるかな、中標津空港では飛行機の到着が遅れ、機材整備にも手間取り、出発が40分も遅れた。さらに上空は気流が悪く、飛行機は大きく揺れた。

こうして私の長年の夢は台風19号、ブスのバスガイド、暴風雨女の添乗員等々のために大きく崩れ去った。しかし、私はもう一度釧路湿原は訪れてみたいと思う。元気であれば可愛い孫と一緒に・・・

伊藤 克之

「心肺停止」と「死亡」

長野県、岐阜県にまたがる御嶽山が噴火して今日(4日)で1週間が経過した。亡くなられた方は47名に達し、1991年の雲仙・普賢岳を上回る戦後最悪の惨事となっている。sc_020Aさらに16名の安否不明者がいると報道されている。過酷な条件のもと二次災害に気を配りながら救助活動に献身されている1000名を超える救助隊員の活動、奮闘には、ただただ頭が下がるばかりである。亡くなられた47名のうち、46名は噴石などによる損傷死、1名は熱傷死といわれている。

この1週間でマスコミは盛んに「心肺停止」という言葉を多用した。死亡と心肺停止ではどう違うのであろうか。「死亡」という文言は、医師もしくは歯科医師が診断して初めて使えるものであって、「心肺停止」「呼吸停止」「脈拍停止」「瞳孔散大」の4つすべてを医師もしくは歯科医師が診断して初めて成立するものである。したがって、医師、歯科医師が「死亡」と診断しなければ死亡と判断できないため、警察、自衛隊、消防隊員等の救助隊は、発見した登山者の状態(心肺停止、呼吸停止等)を見て「心肺停止」としているのである。また、心肺停止状態から蘇生する可能性もあるのである。

「死亡」というのは、単に「人が亡くなった」というだけではなく、厚生労働省が行っている死亡統計や、相続等の法律上の要件として重要な意味を持つのである。「心肺停止」=「死亡」であるとしたら、心臓の手術などで人工心肺を使用して心臓と肺の機能を一時的に停止させると、心肺停止状態になるため、この時点で手術中の人は自動的に死亡したことになってしまい、相続が開始するため、その人の財産はすべて相続人のものとなってしまう。

また、身内の資産家等が亡くなり、相続権を有する人が同時刻に「死亡」とみなされた場合は、本人が相続人として名を連ねられるか否かで死亡時刻も大変重要になってくる。そのため、死亡診断書には死亡時刻、原因、場所等々細かく記載しなければならないことになっている。

今回の御嶽山登山者の中には、親子や親しい仲間同士で紅葉(コウヨウ)を堪能しに行かれた人たちもあったと聞いている。ちなみに紅葉(コウヨウ)とは、DSC_0148 - コピー秋に野山の木々(落葉樹)が冬に備えて落葉する前に紅や黄色に葉の色が変わることや変わった状態を総称するのだそうである。一方、紅葉を『モミジ』と読むと、カエデの中の特定のものを指すのだそうである。広島県の花を形取って作られた「もみじまんじゅう」 カナダ産のカエデの樹液から作られた「メープルシロップ」は有名ですが、「紅葉狩り」に行き、美味しいものを食べ、景色を堪能しながらも、御嶽山で尊い命を落とされた方々への冥福を祈ることだけは心がけたいものである。
伊藤 克之

 

今はもう秋 誰もいない海♪♪♪ トワ・エ・モアの唄う名曲は、中年以上の高齢者にとっては深い哀愁を掻き立てられる歌であろう。あの暑かった夏が終わり、凌ぎ易い季節がやってきた。秋は実りの秋、食欲の秋、読書の秋でもある。食べ物が美味しく、「天高く馬肥ゆる秋」でもあり、「人も肥ゆる秋」でもある。旬の美味しい物を食べると健康になるという意味から「柿が赤らむと医者が青くなる」「サンマが出るとあんまが引っ込む」とも言われている。

「秋茄子は嫁に食わすな」「秋サバは嫁に食わすな」と言った諺もあり、美味しい茄子や旬のサバを嫁に賞味させるのはもったいないと言った嫁いびり説や茄子は体を冷やすから、またサバは食あたりしやすいので大事な嫁の食膳に出さないようにと言った嫁擁護説が言い伝えられている。

読書の秋にちなんで古書を紐解いてみると、山夕(さんせき、下の句が「秋の夕暮れ」で終わる有名な三つの句のこと)という文字が目に入ったので紹介させていただく。夕暮

寂しさは その色としもなかりけり 槙立つ山の 秋の夕暮 (寂蓮法師)

見渡せば 花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮 (藤原定家)

心なき 身にもあわれは知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮 (西行法師)                (大磯町にある鴫立庵が、西行法師が吟遊中にこの句を歌った場所である、ここで売られている西行饅頭は得意な格好をしており、一度食してみる価値がある)

また、秋には「秋の七草」なるものがある。「春の七草」は「七草粥」にして食べるなど“食”を楽しむものであるが、「秋の七草」は花を“見る”ことを楽しむものとされている。この「秋の七草」は山上憶良が万葉集の歌で選定し、今に至っている。

秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびおり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花    萩の花 尾花 葛花 撫子の花 女郎花 また藤袴 朝貌(あさがお)の花 (朝貌は朝顔ではなく「桔梗」であるとの説が定説)

「秋」をひとつ紐解くだけで、歴史をたどり、古きを尋ねる旅に出ることができるのである。これが現代になると、「一日千秋」「物言えば唇寒し秋の風」「女心と秋の空」「秋の夜と男の心は七度変わる」等々変わってくるものである。しかし、そうは言っても「和」をもってホスピタリティーを実践する介護の世界には、「秋風が吹く」と言った諺は近寄ってもらいたくないものである。

そして、秋といえば日本の大衆魚「秋刀魚」が真っ先に頭をよぎる。秋刀魚落語に出てくる「目黒の秋刀魚」のように、炭火で焼かれた「尾頭付き」の秋刀魚は、血行を良くし、脳梗塞や心筋梗塞を予防し、悪玉コレステロールを減らす効果のある成分を多く含む。秋刀魚の頭と尾を切り落とし、フライパンの大きさに合わせて焼かれた現代風の秋刀魚は、お江戸の殿様でなくとも敬遠したいものである。

伊藤 克之

「浅草サンバカーニバル」

今回は、8月23日(土)に東京の下町浅草で開催された「サンバカーニバル」を観て来たお話をしたいと思います。何故かと申しますと、いつもお世話になっている先生が出場していたことと、一度自分の目で本場のサンバを観てみたかったためです。DSC_0113DSC_0118

台東区浅草寺周辺で開かれたカーニバルには、1チーム平均300人(年輩者~児童まで)のダンサーがラッパや太鼓のリズムに合わせて情熱的な踊りを披露し、たくさんの沿道の観衆を魅了していました。DSC_0072

参加されているチームの話では、大使館勤務の方や医師に看護師、サンバの本場である外国人ダンサーもこの日のために来日しているとか…。また、各チームはボランティア活動として福祉施設等への訪問もされているそうです。DSC_0099

「浅草でサンバ」という話しを最初に聞いたときは、聞き間違えたのか?と思いましたが、今年で33回を迎えるのだそうです。どうして浅草でサンバ?…と、知りたくなって調べてみました。DSC_0130

浅草でサンバをするきっかけは、浅草といえば「江戸下町情緒」「粋」というイメージがありますが、実は大の「新しもの好き」なのが浅草ッ子なのだそうです。明治時代には日本最初の映画館や、日本で初めてエレベーターを取り付けた12階建ての赤レンガビル「凌雲閣」、水族館、サーカスなど、浅草には他の町にはない新しい文化がどんどん取り入れられてきました。 また、大正時代になると「大正オペラ」や「安来節」で賑わい、幅広いジャンルの音楽劇を生み出してきました。 歌って、踊って、楽しむサンバカーニバルと浅草の結びつきはすでにこの頃からあったようです。 そうした背景のなか、昭和30年代後半から40年にかけて、盛り場の中心は、他の地区に移っていきました。 このような状況の中で当時の内山台東区長と浅草喜劇俳優の故・伴淳三郎氏が、浅草の新しいイメージをつくるお祭りとして、ブラジルのサンバカーニバルを浅草で開催することを提案し、これをきっかけに浅草の商店連合会が主体となって浅草観光連盟にも呼び掛け、浅草サンバカーニバルは誕生しました。こうして浅草サンバカーニバルは産声を上げ、東京下町の夏を代表するお祭りのひとつにまで成長したという訳です。 現在では、出場するチームも全国区のものとなり、またサンバの本場、ブラジルの人たちからも非常に高い評価をいただいているそうです。DSC_0145

薀蓄はこの位にして、皆様も是非一度「浅草サンバカーニバル」ご覧になってみては如何でしょうか?色とりどりの羽根飾りを付けたダンサーの華麗なステップに大迫力の演奏がきっとやみつきになるかも…ヽ(^o^)丿 (リポーターは石田忍でした!)DSC_0061DSC_0035

1、2、3、そして8と30

八月十五日、日本は69回目の終戦記念日を迎える。「宣戦を宣告するのは老人だが、戦死しなければならないのは青年である」ハーバート・フーバーの言葉である。yjimage[6]そして終戦記念日を遡ること数日、8月6日は広島の、8月9日は長崎の原爆忌である。世界文化遺産の候補にも挙がった「日本国憲法第9条」は大切に残したいものである。

また、昭和60年8月12日には日航機が御巣鷹の屋根に墜落し、520名の尊い命が奪われている。吹奏楽部でクラリネットを吹いていた私の高校時代の先輩も、この事故でかえらぬ人となってしまった。翌年、ご両親をお招きして、励ます会と偲ぶ会を開催したことを覚えている。

私にとって「お盆」がある8月は、一年で一番嫌な月ともいえる。さらに加筆すれば、日航機墜落から一か月前(7月13日)に弟が亡くなっているのである。先天性心疾患を患っていた弟は、東京女子医大で2度目の手術を受けた。38歳であった。ICUで体中に生命維持装置を付けられ、スパゲティー状態で亡くなったのを昨日の事のように覚えている。術前、主治医であった橋本という教授は、「手術の危険性は30%」と説明してくれた。私たちは手術の成功する70%を信じた。でも、弟は亡くなった。私はこの30という数字も、いまだに好きになれない。

「モノの始まりが1ならば、国の始まりは大和の国、島の始まりが淡路島、ドロボーの始まりが石川の五右衛門ならば博打打の始まりは熊坂のチョウハン」yjimage[1]お馴染みのフーテンの寅さんこと車寅次郎の啖呵売のさわりである。私のとってブルーな8月であるが、心が和む数字の絡んだ名言集を読破したので、そのほんの一部を紹介したい。今回は「1・2・3」に関するものを・・・

「イギリスには60もの異なる宗教があるくせに、ソースはたった一種類しかない」(フランチェスコ・カラチェロ」

「恋とは、二人で一緒にバカになることである」(ポール・ヴァレリー)

ファースト・キスは、女にとって始まりの終わりに過ぎないが、男にとっては終わりの始まりである」(ヘレン・ローランド)

「結婚後も夫は変わっていないという女性は10人中わずか1人。10人に9人は変わったと答え、三人に一人は悪いほうに変わったと答えた」(ギャロップ調査会)

「人間は一匹の虫も作れないが、1ダース以上の神を作った」(ミッシェル・モンテーニュ)

「下手な外科医でも一度に一人しか傷つけないが、ダメな教師は130人をいっぺんに傷つける」(アーネスト・ボイヤー)

二人目の参加者さえいなければ、だれでも勝てる」(ジョージ・エード)

二ヶ国語を話せるバイリンガル、三ヶ国を話せるのはトライリンガル、一ヶ国語しか話せないのはアメリカ人」(英語のジョーク)

「人生のすべて次の二つから成り立っている。したいけど、できない。できるけど、したくない」(ゲーテ)

「人間にとってたった三つの事件しかない。生まれてくること。生きること。死ぬことである。生まれる時は気がつかない。死ぬときは苦しむ。そして生きている時は忘れている」(ラ・プリュイエール)

「セックスは第三者がとやかく言う問題ではない。関係者が三人いる時以外は」(作者不詳)

そして最後に、yjimageEDP6ID37

「人と人の距離を最も縮めてくれるのが、笑いである。」(ヴィクトル・ボルゲ)

「最後に笑う者は、おそらくジョークが解らなかったのだ」(マーフィーの法則)

『本質を見抜く名言集・晴山陽一著』より             伊藤 克之

 

湘南の地平塚・真土そして今里

3日間で165万人の観光客が訪れた「第64回湘南ひらつか七夕まつり」2imageを終えた平塚の7月8日は、真夏日のように暑く、日差しも強く、痛く感ずるほどである。一方、沖縄地方には大型の台風8号が接近し、島民は大変な思いを強いられている。よく災害に見舞われる九州、沖縄、そして紀伊半島等々の人々には申し訳ないが、「ういすたりあ」がある湘南地方は、温暖で風水害の被害もほとんど発生しない土地柄である。もっとも今年の2月には珍しく大雪に見舞われた。しかも2度に亘って難儀を強いられた。しかし、この雪も北国の人に言わせれば雪が積もった範囲に入らないのかも知れない。

このような自然と気候に恵まれた湘南の地、平塚市真土(しんど)今里(いまざと)に「ういすたりあ」は存在する。近世の歴史書を紐解くと、yjimageUZ787A2N新土村(明治初年に真土と表記を改める)の南方には東西に中原道が走り、中央を南北に糟屋道が通る、家数107戸、馬7頭、荷車3台、人力車1台の農業9割、工業1割(明治9年)の薩摩芋作りが盛んな地であったといわれている。その中にあって、今里は鎌倉浄光明寺華蔵院領として寄進され、諸公事等が免除されていた土地であったそうである。

さらに歴史を遡ると、旗本・若林、旗本・本多、幕府直轄の三給の地から宝暦10年(1760年)旗本・若林領と下総佐倉藩領になっている。我家が参加している「稲荷講」のお稲荷さんの名称が「佐倉稲荷」となっているのも、このあたりに由来しているものと思われる。そして嘉永3年(1850年)10月17日から19日に佐倉藩領内で「種痘」が実施され、村民32名がこれを受けている記録が近所の家に保管されて残っている。安政3年(1856年)8月25日夜、大風雨により屋敷、雪隠、物置などの全半壊27棟、新土村等佐倉藩12ヶ村に助成金25両余、挽割麦5斗余が下されるとの記録がある。これ以外、この地は大きな災害にあっていないようである。

書物を紐解くまでもなく、富士山の宝永大噴火(1707年)、大正の関東大震災(1928年)はマスコミ等でよく取り上げられており、私たちの記憶に新しいものの、避難生活を余儀なくされるような災害の経験はない。もっとも太平洋戦争では、平塚に海火薬廠が存在していたため連合軍の空爆の標的となり、旧平塚の中心部は焦土と化したが、このB29による空爆さえ真土は免れている。本当に穏やかな、やさしい地域柄であり、ちょっと足を延ばせば鎌倉や横浜、箱根・富士山といった観光地を訪れることができる、皆様に誇れる風光明媚、温暖な風土であると思っている。

一方暗い出来事としては、私が幼いとき祖父によく聞かされた事件があったのも確かである。明治11年10月26日夜、地租改正に伴う地券発行をめぐる質地取戻しの争いに端を発し、村民20数名によって質取主・松木長右衛門一家7名が殺害される「真土事件」が起きている。

しかし、私たちは地球温暖化による異常気象が原因と思われるゲリラ豪雨、風水害、土砂崩れ、地震、竜巻等の天災にいつかは見舞われることを想定し、備えと心の準備は怠らないようにしておかなければならない。

日本歴史地名大系(平凡社)を参考に原稿を作成致しました。    伊藤 克之

 

疑心(義歯ン?)暗鬼

5月35日、すなわち6月4日は、中国政府が最大級に敏感な「語」だそうである。25年前に天安門事件が起きた日であるが故である。中国では、6月4日とネットに書けば当局に削除される。監視をかわす隠語として広まったのが5月35日だったそうである。(朝日新聞・天声人語より)

わが国で6月4日といえば、昭和3年から昭和13年まで日本歯科医師会が実施していた「虫歯予防デー」が馴染み深い。41p-16この呼び名も平成25年度から厚生労働省の通達により「歯と口の健康週間」(6月4日~10日)と名称が変更された。この歯と口の健康に関する正しい知識の普及啓発、歯科疾患の予防に関する適切な習慣の定着、そして早期発見早期治療の啓蒙活動も昭和3年の「虫歯予防デー」に始まり、「護歯日」「健民ムシ歯予防運動」「口腔衛生週間」「口腔衛生強調運動」再度の「口腔衛生週間」そして「歯の衛生週間」等々多くの名称を変えてきた。これに伴って、歯科医師の業務の重心も抜歯を中心とした「外科治療」から義歯や架橋義歯(ブリッジ)等の「欠損補綴」、歯を温存する充填・被覆(インレー、クラウン)治療、そして予防・矯正・審美歯科へと移行していった。

私の学生時代のクラス担任であった押鐘教授が2千ページにも及ぶ著書「医師の性科学」の中で義歯に関して興味ある記述をしておられるので、二点ほど「歯の衛生週間」にちなんで読者にご披露させていただく。

フランスに留学中の日本人の某医学博士が、仲間と一緒に面白い所に遊びに行かれた。そしてクジ引きで当たった女性から、彼は一つの命令を受けた。それをやるのは、フランスでは女性に対するエチケットになっているのだという。仕方がないから、彼はエチケットに従ったところが、毛が鼻の穴に入ったので、大きなクシャミが出てしまった。慌てて行為をやめて見たら、女性の部分に歯が生えている。びっくりしてよく見たら、それは吹き飛んだ自分の局部義歯であったという。この話を聞いた著者はpartial denture に局部義歯という名を付けられた、歯科の先輩学者の先見の明に、全く感心した。(筆者注:欠損補綴・義歯には、主に残存歯がないときに装着する総義歯と残存歯が何本か残っているときに装着する局部義歯とがある。でも、本当かなァ~。筆者には歯科と解らん!)

 

お酌の磯千代は、まだやっと十六になったばかりだけれど、芸者家業の常道とでもいうのか、それとも親娘ほどに歳の違う旦那の斯道の教育がよろしかったからか、大柄でもあったがひどくませた妓で、そのくせ妙に可憐なところもあった。北の寒い国に生まれた磯千代は、酒もかなり強かったがこんなところで遊ぶ男達にはかなわなかった。酔った彼女は、ふらふらと立ち上がって、そっとお座敷を抜け出そうとした。

「逃げるのかい?」

「いいえ、逃げやしないわ。バルコンへ行ってちょいと頭を冷やしてくるだけ」

露台には物干し台がある。その闇の中に白いものがふわふわしていた。幽霊?そんな馬鹿なことがあるものか。洗濯物を仕舞い忘れたと思ったのが、酔っている磯千代の錯覚だった。その白いものがこちらに歩いてくる。磯千代は一時に酔いが覚めたように吃驚した。「まあ!あんただったの?」

二人は抱き合った。まだ内緒事の恋人らしい抱擁、接吻。その時何が落ちたのか、露台のコンクリートの上で変な物音がした。

「乱暴ね。何か落ちたわ。私の懐中鏡じゃないかしら?」

そんな物音だった。が、それは懐中鏡ではなかった。男の総義歯が、口から飛び出したのである。男はこの待合の板前だった。yjimageTXZQCMMP

男があわてて露台を犬のように這いまわって、その落し物を探しているのを、磯千代はぼんやりとその傍に立って・・・悲しい気持ちで見ていた。(義歯のエロティシズムかな?)                              伊藤 克之

目から鱗

私の父は典型的な会社人間であった。朝六時前には家を出て、四キロ先にある駅まで自転車で向かい、私たち兄弟や母、さらには同居する自分の父や祖母までを養うために、目いっぱいの残業をこなし、夜は私が寝ついてから帰宅するような生活であった。そんな父が「肩たたき」にあい、長年勤めた会社を辞めた。

時代が昭和から平成に代る頃だったと記憶している。玄関先に植えてあった植栽・柊の剪定に没頭し始めた。伸びた幹を切り、小枝を刈り上げる作業を生業のようにいていた。しかし、翌年になると柊の高さは半分程になっていた。そして、翌々年柊根だけを残して伐採されていた。果たせるかな、あくる年にはスコップと鋸を駆使して柊の根の掘り起こしに没頭している父の姿があった。徐々に徘徊が始まったのもこの頃からであった。CIMG0764ある時は徒歩で、ある時は自転車で、結構遠くまで遠征していた。親切な人には送られて、時にはパトカーで送られて帰ってきた。電話で父の存在を知らせてきてくれた人たちに対しては、即座に受け取りに行き、平身低頭でお礼を述べて引き取った。家に囲い込むと、家の中でも昼夜逆転、徘徊始まり、トイレと冷蔵庫とを間違え、冷蔵庫を開けてその中に小便をする始末であった。晩年の父には苦労をさせられた思い、大きな声で叱った思い出しか残っていない。今のように「介護保険制度」が確立されていない時期に、母や家内は私以上に苦労をさせられていたのであろう。

「ういすたりあ」は特定施設ケアハウスである。一言で言うと「介護保険制度を必要としない、自立した高齢者が元気なうちから入所できる特別養護老人ホーム」である。現在、介護保険制度を利用して入所されていらっしゃる方の中には認知症状の相当進んだ方もおられる。CIMG0765徘徊、介護への抵抗、昼夜を問わず、ひっきりなしのナースコール、ヘルパーへの罵詈雑言等々。このような環境に耐え、献身的に介護する職員に私は、昔の至らなかった自分を恥じ、職員にただただ心の中で手を合わせ、頭を下げるのみである。

今年のGWに「ばあちゃん、介護施設を間違えたらもっとボケるで!」(長尾和宏・丸尾多重子著、ブックマン社刊)を完読した。そしてかつての自分を恥じた。この本の中には「介護」ではなく「快護」をしよう、認知症は「忘れる」のでなく、「新しいことを覚えられないのだ」(近藤誠氏談),ケアマネに求められるもの、介護施設の見学ポイント、認知症薬の現状等が記載されていて、介護の現場で活躍している人の忌憚のない意見・感想に触れることができて感激をした。中でも「介護にたった一つの正解はない」『人間はボケていくとすごく素直になっていくんです。嘘や虚勢や人を騙すことをしなくなる。心が裸になって、人間の本質を見せてくれる。だから「介護とは何か?」を考えることは、実は「人間とは何か?」を考えることでもあるんです。CIMG0766「学び喜ぶ」もあれば「その人の本質に出会える喜び」もある』というフレーズには、強く心を打たれた。認知症と言われる方々への認識を新たにした次第である。

お陰さまで晩年の父に対する私の見方も変わってくれそうである。有り難い一冊であった。                伊藤 克之