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平塚大空襲とサリン

yjimage[7]1945年(昭和20年)8月15日、昭和天皇は太平洋戦争における日本の降伏を宣言した。わが国ではこの日を終戦の日・終戦記念日としている。韓国、北朝鮮でも8月15日を「朝鮮が日本の統治から解放された日」として、それぞれ光復節、解放記念日としている。しかし、アメリカ、イギリス、ロシアなどは日本がポツダム宣言に調印した日、9月2日を終戦記念日としている。それゆえロシアは日本の終戦の日が過ぎても、ソ満国境を越えて満州に攻め込んできたのである。因みに中国は9月3日が終戦記念日だそうである。

終戦記念日を遡ること約2カ月、昭和20年6月16日22時30分、平塚市一帯に空襲警報が鳴りわたった。同時刻にマリアナ諸島を飛び立ったB-29爆撃機138機が来襲し、旧平塚市と隣接する大野町には447,716発、1,173トンの焼夷弾が投下されたのである。因みに約3カ月前の3月10日の東京大空襲に投下されたパナーム弾、焼夷弾の数は38万1千発である。いかに投下された爆弾の量が多かったかが窺える。

私は今日まで、このブログを書くにあたって参考にさせていただいた文献を読むまで、この平塚大空襲は旧平塚市と大野町に海軍火薬廠(現在の横浜ゴム一帯)を始めとする多くの軍需施設があるからだと聞かされていたし、その説を疑うことなく信じ込んでいた。yjimageYPBL1TWQしかし、いくつかの文献を読むにつれて、私の思い込みは大きく変わった。平塚空襲被害者たちの証言を聞けば海軍火薬廠の空襲による被害はそれ程甚大ではなく、また当時の海軍火薬廠は物資不足で火薬等をつくることができず、食糧としてのイモを作っていたので爆撃を行う必要がなかったのである。しからば何故平塚の地が爆撃目標になったのであろうか。

当時アメリカ軍は日本本土上陸侵攻作戦として、九州上陸と関東上陸の両作戦を企てていた。関東においては、九十九里浜もしくは相模湾からの上陸を考えていた。果たして相模湾茅ヶ崎の上陸を想定していたアメリカ軍は、そののち真直ぐ北上し、八王子を経て都心に侵攻する計画であった。この作戦を裏付ける事実として、アメリカ軍は8月2日未明に八王子を空襲している。B-29爆撃機170機で焼夷弾67万発を投下し、八王子市街地の8割を焼失している。

過去の沖縄上陸作戦で未曾有の死傷者を出した苦い経験から、アメリカ軍は関東上陸に先立って、上陸地点の一切の建物を消滅し、狙撃兵の遮蔽物を破壊消滅した。それでも生き残った日本人は、サリンの散布で全滅させる作戦を立てていた。そして、戦後平塚に進駐し、神奈川県西部を占領・統治するための師団司令部予定地に火薬廠を想定していたのである。

8月15日に終戦を迎えることなく、アメリカ軍の本土上陸侵攻作戦が実行されていたならば、私はサリンで薬殺されていたかもしれないし、神奈川県も沖縄県のような基地の多い街となっていたかも知れない。

この本土上陸作戦(ブラックリスト作戦)の裏には、さらに「戦争の罪を日本人に教え込む教育・WGIP計画」が進行していた。これは日本人に対して「広島・長崎の原爆投下を含めて、この戦争の悲劇・原因と罪が、すべて日本人にあることを教育・洗脳する」ための壮大な『洗脳教育』である。この計画を平塚市民にあてはめてみると、『平塚大空襲の責任は「海軍火薬廠などをつくった君たちにあるんだよ」ということを平塚市民に教え込み、「サリン散布」「関東上陸作戦」などに平塚市民の目を向かわせないようにする』ことであった。この計画は昭和46年まで続けられた。

平塚市民の多くが、「平塚に海軍火薬廠が存在したことによって、空襲を受けた」と信じ込んでいたことを考えれば、このWGIP計画は成功といえるのではないだろうか。戦後の一時期、森重久弥、三木鮎郎、宮城まり子氏などが協力し、アメリカ大使館・ラジオ部で実行された「日本人をアメリカ好きにする心理作戦」は、先の計画に追い打ちをかけたのではあるまいか。yjimageSTH98ZUA

このブログを書くにあたっては、平塚宝善院・松下隆洪住職他の文献を参照させていただいた。

伊藤 克之